「日本の洋家具発祥の地 神戸」(130号より)
神戸は日本初の洋家具発祥の地として知られている。
1868年神戸港開港により持ち込まれたヨーロッパ家具を公証人相手に永田良介が船大工の技術を持った職人と修理、買い取り販売を手掛けたところから始まる。
その後、椅子・手彫り・塗装等それぞれ専門分野が職人技として手掛け、明治初期から大正期にかけて、神戸洋家具の基礎ができた。
開港から5年後、1872年、永田良介商店が設立された。
職人技として手掛けたそれぞれの商店は、今もそのまま専門店として神戸の洋家具を支えておられる。
2007年(平成19年)7月号から始まった「神戸から始まった」
約15年続きました。ちょうど55回目となる今回が最終回となります。
長い間、ありがとうございました。
「海上文化都市」(129号より)
昭和39年の神戸市会の説明会から数えて18年後、甲子園球場の120倍、436ヘクタールの広さを持つ世界初の海上文化都市ポートアイランドが誕生した。
人工島として誕生したポートアイランド。続いて完成した六甲アイランドは大型マンションビルが立ち並ぶモダンな近代都市。
南の海上には、2006年に開港した神戸空港があり、空の玄関口となっている。
「地方の博覧会」(128号より)
ポートピア’81 正式名称は「神戸ポートアイランド博覧会」
ポートアイランドの完成を記念行事として1981年(昭和56年)3月19日の開会式をかわきりに、9月15日までの170日間、開催された。
予想入場者数310万人を大きく上回る1,610万人が来場するという大盛況。
デザイン、未来的なパビリオンが数多く登場し、反響を呼び、のちの地方博覧会ブームの火付け役になったともいわれている。
サンテレビが本社をポートアイランドに移したきっかけとなったそうです。
「無人運転電車」(127号より)
わが国で初めての無人による完全コンピュータ制御運転を行う新交通車両は、「ポートライナー」と名付けられ、昭和56年(1981年)2月4日に竣工式、翌日5日に世界初の自動無人運転方式として、三宮~南公園~中公園間が開業した。
同年3月20日から9月15日まで開催された神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア81)の会期中は観客輸送が中心となったが、現在は、島民の移動の足や島内施設へのアクセスとなっている。
2006年には、神戸空港開港にともない延伸、複線化された。
一方、六甲ライナーも1990年2月に開業した。
「日本人設立初の養老院が起源の神戸老人ホーム」(126号より)
明治時代に日本人が初めて設立した老人ホームを起源とする社会福祉法人「神戸老人ホーム」(神戸市東灘区)が、昨年、創立120年を迎えた。
創設者は伊予出身の寺島ノブヘ。看護師を志して京都へ。看護学校卒業後、大阪、神戸で「派出看護婦」として働いた。
自らの家庭環境が複雑だったことなどから孤児救済事業を目指したが、やがて孤独な環境の高齢者に目を向けるようになる。
明治32年(1899年)、神戸市生田区(現・中央区)の借家に「友愛養老院」を創設した。
高齢者福祉が未整備だった時代にあって先駆的な取り組みだった。
小さな借家で始まった事業は後継者に引き継がれ、発展した。
昨年4月には、東灘区鴨子ヶ原に特別養護老人ホーム「かもこの風」がオープンした。
「8時間労働は神戸が原点」(125号より)
今では当たり前になっている8時間労働は、神戸が原点。川崎造船所(現川崎重工業)が日本で初めて採用してから今秋で100年。
神戸ハーバーランドには「8時間労働発祥の地」がある。
碑には「大正8年(1919年)当時の川崎造船所の松方幸次郎社長が我が国で最初に8時間労働制を実施したことを記念してここに碑を建立」と記されている。大正7年(1918年)、第一次世界大戦終結後、急激な不況が日本を襲った。同年9月18日、工場全従業員約1,700人が団結してサボタージュ(仕事を怠ける)闘争に突入。10時間労働が一般的だった時代に、松方は「日給は従来の10時間と同額のまま就業時間を8時間に改正する」と発表した。
同社の影響は大きく、神戸製鋼所や播磨造船所等もすぐに取り入れ、全国200社以上に広がった。
神戸新聞より
「高速道路」(124号より)
文明開化を告げる新橋ー横浜の鉄道開通から4年後の1876年、兵庫では初めての高速道路の「銀の馬車道」が開通した。銀山がある生野から姫路市の飾磨津までの約49キロ。
欧州の工法を用いて粗石、小石、豆砂利などを敷いた画期的な舗装が実現した。
水田より60センチ高い路面は頑丈で水はけがよく、荷物を満載した馬車が高速で走ることができた。この工法は「近代舗装の芽生え」と建設業界で評価される。馬車から鉄道、そして車へ。歴史に刻まれていた馬車道は、この4月「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」のストーリーで日本遺産に認定された。
神戸新聞 正平調より
「三宮にあった競馬場」(123号より)
明治の初め、神戸三宮、生田神社の東側、生田新道から東門街にかけて競馬場がありました。
明治元年(1868)のクリスマス、居留地の東北部にあった砂利道のような所で、神戸初の競馬が居留地外国人により行われました。
その後明治2年(1869)3月に、外国人の競馬クラブ「兵庫レースクラブ」が生まれ、生田神社の東側に競馬場が作られました。
11月に新コースで第1回レースが開催されています。
やがて、鉄道の開通と人力車の普及により馬を飼う必要がなくなったことや、市街地の拡大、借地料の問題などの理由により、明治7年(1874)11月をもって競馬場は幕を閉じました。
赤いパッケージに坊やのマークでおなじみのビスコ(122号より)
グリコーゲン入りキャラメル「グリコ」に続く商品として江崎グリコが「美味しくて強くなる」というキャッチフレーズで1933年に1箱10銭で発売を開始しました。かつては子ども向けというイメージが強かったが、近年「一口サイズで食べやすい」と家事や仕事に忙しい女性に受け入れられている。
阪神・淡路大震災以降は5年間保存できる「ビスコ保存缶」も製造され、東日本大震災以後は保存食としての地位も確立しつつある。
なお、現在の「ビスコ坊や」は5代目。
神戸新聞より
「湊川神社のオリーブの木」(121号より)
日本のオリーブの歴史は明治の富国強兵・殖産興業政策が始まりです。当時政府は生活に役立つ植物の栽培研究に乗り出した外国産植物を積極的に栽培し、輸出の拡大を図りました。
そこで明治6年、ウィーン万博の事務副総裁・佐野常民氏が初めて日本にオリーブの樹を持ち帰り、次に明治11年、パリ万博の日本館長・前田正名氏も持ち帰り、それぞれは神戸にある官営の農業試験場・植物園に植え付けられました。明治末期、両植物園が共に閉園を迎えたさいに二人と親交の篤い仲だった湊川神社初代宮司・折田年秀氏に寄贈したとされます。
同時代のオリーブの樹は加古川の宝蔵寺以外、他に国内に現存するかは確認されていません。樹齢百数十年、日本最古のオリーブの樹のうちのこの一本は、歴史を見守りつつ毎年たわわに実を結びつけています。
「高山植物園」(120号より)
1933年(昭和 8年)6月24日、植物学者である牧野富太郎博士の指導で六甲山に我が国初の高山植物園が開園された。
5万平方メートルの園内には六甲山系の植物をはじめ、国内や世界の高山植物約1,500種が自然に近い状態で植栽されている。
1955年(昭和 3年)に植物館相当施設の指定を受けた。
「ドムドム ハンバーガー」(119号より)
皆さん「ドムドム ハンバーガー」の名前を覚えていますか。ダイエーの資本で全盛期は「ドムドム大国」だった神戸。ドムドムはダイエーが1970(昭和45)年に設立した。日本に進出したマクドナルドより一足先に1号店を出店、国内最初のハンバーガーチェーンとされる。創業者中内 功氏の出身地である神戸に本拠を置き、全国に拡大していったダイエー店舗に併設されることが多かった。低価格のセットや飲み放題だったコーヒー等、若者や主婦の心をつかんだ。しかし、ダイエーの経営悪化もあって90年代には全国に400店舗以上あったというが、現在は全国で50店まで落ち込み、神戸市内に唯一存続するのは、兵庫区湊川商店街沿いの「ドムドム ハンバーガー湊川店」、ダイエー湊川店内の北の端にあり、主婦や親子連れでにぎわっている。
「皆さん、一度行ってみてください。」 係りより
「生活協同組合 ~市民による生協~」(118号より)
大正14年、キリスト教徒として貧民救済に取り組んでいた賀川豊彦が中心となり、現存する中では我が国初の本格的な市民による生活協同組合「灘購買組合」と「神戸購買組合」(現コープこうべ)が設立された。
その後、それぞれ灘神戸生活協同組合と神戸消費組合と改称され、両社が合併し、91年に創立70周年を機に「生活協同組合 コープこうべ」に名称変更された。
「日本初の水族館」(117号より)
日本で初めての水族館が神戸にあったことを知っていますか。
神戸開港後の1890年に、須磨海浜水族園の前身となる「和楽園」という遊園地が建設されました。現在の水族園に近い施設で、100種5千点もの魚が展示されていたそうです。
その流れをくみ、1957年に「須磨水族館」が開館。当時はまだ全国的にも水族館は少なく、東洋一の水族館との呼び声が高い施設でした。
その後1987年に「須磨海浜水族園」に改称。国内最大級の水槽「波の大水槽」が造られ、多くの人々が海の生き物の生きざまを間近で見ることができるようになりました。
広報紙 こうべより
「デパートの土足」(116号より)
今では考えられないことですが、土足のまま入ることができるデパートが日本で初めてできたのは、大正12年(1923年) 5月15日、福原にオープンした白木屋の神戸出張店。
現在では、土足厳禁のデパート等は考えられないが、当時の業界としては、驚くべきことだった。
日本初のデパートは、明治37年(1904年) 、株式会社 三越 呉服店の社名で東京日本橋に創業された。元が呉服屋だったため、土足厳禁という習慣が続いたらしい。
明治期誕生の「からくりおもちゃ」(115号より)
明治中期に神戸で誕生した木製の「神戸人形」黒塗りの姿で台の上で人形が手を動かし、首を振り、大きな口をあけて西瓜を食べたり、酒を飲んだり、滑稽な動きが特徴で寄港した外国人らの人気を博した。
神戸人形は長田神社の参道筋にあった芝居の小道具師「長田の春さん」が最も古い作者と云われている。
一部、有馬玩具博物館でも所蔵されている。阪神大震災のあと制作が途絶えていたが、同博物館では神戸のハイカラな「紙からくり」としてトランペットでスイングするパンダや動物園のペンギンなどを作成し、近々販売の予定とも。
また、神戸港開港150年の記念として、神戸市が依頼し、東灘の人形工房では波止場を背景に船に乗ったり、岸壁でたたずんで居る人形が港のジオラマとして作成された。つまみを回すと動き、ジャズ演奏や、洋服の仕立てを始めるなど演出が施されている。
「トイレットペーパー 日本最古は神戸産」(114号より)
紙の博物館(東京)によると、神戸市内にあった貿易商、島村商会が日本で初めてトイレットペーパーを作った会社とされている。島村商会が大正13年(1924)に高知県土佐工場に製造を依頼し、ロール型トイレットペーパーに仕上げ、外国汽船などに納入していたという。当時のトイレットペーパーには島村商会の名前と住所が英文も含めて印刷され、日の丸の扇子がマークとして描かれている。日本で記載されている住所は下山手3丁目。
なお、トイレットペーパーを初めて広告にしたのは京都とされている。
~ゴミとトイレの近代誌~
また、昨年12月3日付の神戸新聞にも「トイレットペーパー 日本最古は神戸産」と写真入りで掲載された。
「とと姉ちゃんの編集長」(113号より)
NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」で「暮しの手帖」に登場した天才編集者花山伊佐次は、神戸出身、本名 花森安治さん(1911年生)。旧制兵庫県立第三中学(現 県立長田高校)出身で、同校の同窓会誌「神撫臺」36号(76年発行)には、花森さんと卒業生の対談が収録されている。その中で花森さんは「美しいというのはその時その時の用に立っているもの。というのがボクの美学」と語られている。対談に同席した人は「変わった人と聞いていたが、実際は恰幅のよい、どっしりした人だった。型にはまらない考え方だからこそ、新たな発想を生み出せたのでは」と語る。
神戸新聞より
「缶コーヒー」(112号より)
缶コーヒーは、1969年(昭和44年)にUCC上島コーヒーが開発製造し、世界で初めて販売した。値段は喫茶店とほぼ同じミルク入りで70円。今も続く「三色缶」は、赤はコーヒーの実、白はコーヒーの花、茶は焙煎したコーヒー豆の色を表している。缶のデザインは時代の節目ごとに手を加えられて今の缶は8代目。しかし基本は変わっていない。ショート缶が主流になった今もロング缶250グラムのまま。
1994年(平成6年)、ブラック缶が発売された。
「毎日登山」(111号より)
我が国に初めて「スポーツ」としての登山を持ち込んだのは神戸の外国人たち。
明治38年(1906)、在神外国人たちが今の北野坂から再度山・六甲の山歩きをするようになり、E.H.ドーンを中心とする外国人たちによって毎日登山をする習慣ができた。また、大竜寺参道の善助茶屋跡に「毎日登山発祥の地」と石碑が建てられているが、ここ善助茶屋に登山者のサイン帖が置かれ登山途中の社交場としてにぎわったと言われている。この習慣は神戸の一般市民に受け継がれ、朝の運動として毎日仕事に出かける前に、また夕方の仕事帰りに布引、再度山の山並みを散歩する運動が広がり、それが神戸徒歩会に発展していった。現在でも毎日登山を行っている人は4,000~5,000人と推定されている。
「水木 しげる さん」(110号より)
昨年 11月30日に妖怪まんが作家の水木しげる(本名:武良 茂)さんが亡くなられました。「水木 しげる」という名前は神戸時代につけられました。昭和24年、神戸市兵庫区水木通で貸しアパートを経営し、紙芝居制作で身を立てようと決意。アパートの名前が「水木荘」。水木荘の跡地近くに住んでいた人によると、水木というペンネームを考案した名付け親は義母のますゑさんだそうです。ますゑさんは水木さんが右腕1本で創作活動に励む様子を何度も目にしており、本名の武良ではなく、水木の方が親しみやすいのではと本人に提案されました。また、紙芝居の貸本元が本名を覚えないでいつまでたっても水木さんと呼ぶため、そのまま「水木 しげる」のペンネームにしたともいわれています。
~神戸新聞 記事より~
なお、水木さんの書かれた妖怪たちは戦争当時、パプアニューギニアのラバウルで左腕を失い、目の前で死んでいった戦友たちから着想したといわれています。
「そば飯」(109号より)
元々の発祥は、長田区の一軒のお好み焼き屋さん。昭和30年ごろお客さんが冷えた弁当を持ち込んで、「焼きそばと一緒に焼いて」と頼んだのが始まり。当初は裏メニューだったが、口コミで徐々に広まり、全国的に知られるようになったのは、阪神・淡路大震災がきっかけ。今の店主は当時から3代目。
国内初の豚まん専門店第1号「老祥記」(108号より)
1915年(大正4)来日した中国浙江省出身の曹 松琪さんが創業。日本人に親しみを持ってもらえるよう中国の「包子(パオツー)」を「豚饅頭」と命名して売り出した。豚まんの専門店としては日本で初めてだったという。創業月日は不明。現在1個90円で、一日約1万3000個を売る。店舗前の南京町広場に出来る行列は今でこそ見慣れた風景だが、3代目曹 英生(58)さんによると、バブル期には「人が渦巻くような」長い列で午後1時の時点で並ぶのを断らざるを得ないほどだった。100周年を盛り上げる事業として、老祥記の豚まん製造工程やおいしい食べ方、神戸の人気豚まん店の紹介等14ページの冊子も作った。
英生さんは「正直な商売を心がけ、老舗のプライドを守りたい」と語る。
「ゴルフ」(107号より)
イギリス人貿易商のA.H.グルームが神戸六甲山上に何人かの仲間と共に岩を掘り起こし、雑草や笹の根を手鎌で刈り、まったく人の手により 3年がかりで1901年(明治34年)秋、 4ホールのコースが出来上がり、ゴルフを楽しんだ。 2年後には日本初のクラブ「神戸ゴルフクラブ」が誕生した。ここからは、日本人選手として全英オープンに出場したり、日本人初のプロゴルファーがでている。
「混浴禁止令」(106号より)
男女混浴禁止令は明治元年に伊藤博文県令(県知事)が発令。東京、神奈川は明治5年からといわれている。銭湯は天然の温泉がたまってできた野湯であった為、男湯、女湯の区別は無く出来たもので、裸の入浴は江戸時代以降ともいわれる。江戸時代に入ると大都市で銭湯が大衆化し、松平定信が1791年、江戸の銭湯での男女混浴禁止令を出すが、依然として混浴が主流であった。明治新政府は欧米への体裁を気にし、禁止令を出すが治まらなかった。完全に無くなったのは明治末期になってからであった。しかし、それでも尚、地方の温泉地など多くが混浴は当たり前という時代が30年代まで続いた。
「とんかつソース」 (105号より)
洋食文化盛んな神戸の皆の憧れる「とんかつ」に合うソースとして、ウスターソースの販売をしていたオリバーが、1948年(昭和23年)世界で初めて粘度のあるソース「とんかつソース」を開発し日本で初めて販売しました。関西で絶大な人気を誇る「どろソース」も製造され、「粉もん文化」の発展につながりました。今年、製造から66年を迎えた「とんかつソース」は、日本人の口に合うよう改良を重ねられ洋食や粉もん文化と共に日本の食生活にしっかり根付いたものとなりました。
「ハンドメイド紳士服―柴田音吉洋服店」 (104号より)
1883(明治16)年創業、日本人初のテーラーとして初代の柴田音吉さんが元町に店を構えて130年余り。明治天皇や伊藤博文らの洋服を仕立てた。近年スーツ業界では軽量化がテーマだが同社では1960年にいち早く盛夏用の服で軽さを追求した「クールスーツ」を作ったという。
「大井肉店」(102号より)
湊川神社の近くで現在も営業している大井肉店。明治4年の開店。日本の牛肉専門店の草分けである。創業者 岸田伊之助が、始めのうちは外国船への納入だけだったが、一般にも普及するようになって小売も始めた。明治35年には保存の利く「牛肉味噌漬」や「牛肉佃煮」を研究開発し、土産物用に全国販売した。当時のステンドグラス入りレストランは歴史的建造物として「博物館 明治村」に保存されている。
「御影石」(101号より)
六甲の花崗岩。聖徳太子の頃からすぐれた石材として切り出され、大阪城の石垣にも使われた。東灘区のあたりで特に沢山とられたのでその名がある。後には広く花崗岩全体の呼び名となった。
三井住友銀行(100号より)
昭和11年12月兵庫県下主要7行の合併により神戸銀行が発足、昭和47年太陽銀行と合併し、太陽神戸銀行となる。平成2年三井銀行と合併し、太陽神戸三井銀行に、平成4年称号をさくら銀行と改める。
平成13年住友銀行との大合併を行い現在の「三井住友銀行」へと至る。